fc2ブログ
農業研修生は渡米後、最初カレッジの寮に全員で一ヶ月過ごす。

北は北海道、南は沖縄まで日本全国から約160人の若者が集まってきた。

だから当然、研修生同士の話題になる事の一つにお国言葉、つまり方言があった。

新潟からは私一人だったが、一つの県から複数やってきたところもある。

同県人の人達が方言で話しているのを見ると何を話しているかよくわからないことがあった。

特に鹿児島県人同士と青森県人同士が話しているのを聞くと全くわからない。

ところどころ聞こえてくる名詞しかわからない。

また、テレビや本を通して聞く言葉などを初めて生で聞いて変に感動したりもした。

最初、都会からきた人の言葉使いを聞いたときテレビドラマで話している言葉とそっくりで実際、生で聞いてみると女みたいに軟弱で虫ずが走った。

静岡や山梨から来た人たちは
「こーずらーっ、そーずらーっ。」
とドカベンの殿間と同じであったし、長崎から来た人は自分のことを「おいどん」と呼んでいた。

「おいどんは…ですばいっ!」

高知からきた人は龍馬の台詞と同じであった。

「舐めたらいくぜよーっ!」

大阪弁もそこで初めて生で聞いたのだがテレビなどでメジャーになっているから、話していることは理解できた。

ここで方言について少し語ろう。

Dr6のメンバーはすでに私が方言にこだわりを持っているのはご存知だが、私は方言に固執する。

なぜなら、それが私の一つのアイデンティティーだからである。

私は五泉弁を話すがそれが正統な五泉弁かと聞かれれば、そうともいえない。

私と父の話し言葉も少し違うし、また、死んだ祖父と父との間でも違った。

同じ五泉でも場所により違ってくる。

私の話す言葉は標準語の五泉弁より濁音が多いと思われる。(だぐおんいっぺだうぇっ!)

だから正統な五泉弁などないのである。

これはどこの方言でも当て嵌まることでだろう。

私の持論であるが、五泉弁は単語や各詞のルーツを辿っていくともとは標準語である。

標準語がその土地の土着の風土、文化に合わせて長い歳月をかけて変化していったものである。

だからその地元に最も適合していると同時に標準語が進化した言葉とも言える。

もともと言葉の役目は自分の意思を話し相手に伝達することである。

五泉弁は標準語よりも同じ内容をより早く相手に伝達できるし、感情もより豊かに表現(内包)できる。(主語、助動詞等の省略化。名詞、動詞等、各詞の造形、細分化。各単語の発音及び文のリエゾン化。等などにより…)

だからそういう意味では私の中では五泉弁は言語として機能的にも標準語より優れておりよりソフィスティケート(洗練)された日本語なのである。

だが五泉弁(及び日本全国に散らばる方言)も文化の一つであるからして、悲しいかな成熟期を終えた感があり(テレビなどの影響)、他の文化文明と同様、そう遠くない将来終焉を迎え、日本全国の言葉も再統一され味もそっけもない単細胞的な言語からまたスタートしていくことになるだろう。


いい忘れていたが、沖縄からも何人か研修生が来ていた。

不思議なことに私は沖縄県人から好かれた。

沖縄人同士が話しているのを聞くともはや日本語の陰りすらない。

日本語と全く別物、外国語、琉球語である。

…と思っていたが、彼らに言わせれば、琉球語は万葉集の時代に使われていた日本語であり、本土の日本語の方が変化していったと言っていた。(全く定かではないがっ…。)

沖縄と言えば、その時代は具志堅用高だったが、私は彼がパンチドランカーで

「ちょっちゅね!」

と言っていると思っていたが、沖縄の研修生は全員

「ちょっちゅね!」

と言っていた。

あれは琉球語を話す人たちが標準語を話そうとするとあーゆー発音になるんだなーということが、そのとき初めてわかった。

いやはや、話す言葉(なまり)が人に与える印象というものは話し相手に無意識に話し手の内面とアイデンティテファイさせようとする作用があるから…やはり方言はアイデンティティーである。

ちなみに私は今のテレビや全国共通と思われる若者の話し言葉が大嫌いである。

私にとって今主流の日本語のイントネーションは意図的に私の感情を逆なで、馬鹿にしているように聞こえ、生理的に受けつけ難い。

やっぱ、死ぬまで五泉弁話さんぱねーうぇーっ!


今日のわんこ

方言ということであれば、わんこはわんじょになってしまう。
スポンサーサイト



2011.10.12 / Top↑